親川グシク
□ UPDATE:2015.11.26
親川グシクは羽地グシクとも呼ばれ、羽地按司の築いたものだと地元では言い伝えられています。
このグシクは、有名な水田地帯であった羽地ターブックァの東側、親川部落の北東丘陵上に立地しま
す。ここは現在でこそ村はずれのサトウキビ畑地帯ですが、近世の間切時代には、すぐ南に羽地間切
の番所が造られ、明治になると羽地小学校も建築され、羽地間切の中心地であったことをうかがわせ
ます。標高50mの丘陵頂部を囲むように築かれた石垣は、後に持ち出され、現在完全に残存してい
る部分はありません。しかし、この石垣によって囲まれる連続した3ヶ所の広場があることが推定さ
れ、この中や石垣の周辺から土器や中国製の磁器が採取されています。これらの事実により、このグ
シクが多くの人々の労働力の結果成立し、グシクに関係していた人々が直接にしろ、間接にしろ中国
(明)と交易していた事がわかります。さらに築かれたのも14世紀頃(約600年前)と思われま
す。一見「荒城」にしかみえない親川グシクも、羽地のみならず名護市全体の歴史を解明するための重
要な遺跡です。
~ 名護市教育委員会編集「名護市の文化財と史跡」より引用 ~